二人の内蔵助 

今日、12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日です。
(実際は元禄15年12月14日なので西暦ではちょと違うけど・・・(^^;)

その赤穂浪士の頭が赤穂藩家老、大石内蔵助というのは誰でも知ってますよね。

この大石内蔵助は、主君浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こし、それが原因で赤穂藩取り潰しとなり城を明け渡さなくてはならなかった時に、無血開城を行った素晴らしい人物です。

実は、そうなる七年前に彼は逆の立場だったのです。

岡山の高梁市にある備中松山城は水谷家が治めていましたが、嫡男が早世し継子がなくお家取り潰しとなりました。
その時、幕府の命を受け城を受け取りに行ったのが大石内蔵助なのです。

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雲海に浮かぶ備中松山城

赤穂藩がそうであったように、お家取り潰しを不満とする藩士たちが討ち死に覚悟でろう城、そして合戦も予想されました。
しかし大石内蔵助は水谷家の家老、鶴見内蔵助とじっくり話し合い無血で城を開城させたのです。

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この時は城を受け取る側だった、大石内蔵助、そして渡す方の鶴見内蔵助。
この二人の内蔵助の活躍で戦いにならずに済んだのですが、その7年後に、今度は逆の立場になった大石内蔵助はこの時の経験が生かされたのでしょうね。

どういう因果があってこのような歴史の巡り合わせになったのか不思議です。

人生何が起こるか分からない、経験したことを一つ一つ学んでいく必要があるのですね。
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[ 2015/12/14 06:44 ] 未分類 | TB(0) | CM(4)
こんばんわ
いつも楽しく読ませてもらっています。
そして、今日は、大石内蔵介ネタ!
歴史大好きなもので、ツボにはまりました。
ありがとうございます。
[ 2015/12/14 18:45 ] [ 編集 ]
話はそれますが・・・

高田城も、明治維新の際、城を明け渡しました。
かつて徳川家康の、6男松平忠輝の(舅の伊達正宗)が建てた城だったのです。

開城の時、受け取りに来た氏が一番先に確かめたと言うものは?
【初花】という銘の(茶入れ=なつめ)だったのです。。

たかが(茶入れ)、されど(茶入れ)です。
[ 2015/12/14 18:48 ] [ 編集 ]
もうしょうくんさんへ
こんばんは。
歴史って面白いですよね、ついついその世界に入り込んでしまいます(^^)
二人の内蔵助も歴史好きがいて喜んでいることでしょう。
[ 2015/12/14 20:53 ] [ 編集 ]
アイハートブレインさんへ
こんばんは。
家康から拝領された茶入れは城よりも大切なものだったのかもしれないですね。
高田城、桜が綺麗なところですね。
[ 2015/12/14 21:00 ] [ 編集 ]
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