青の洞門

大分県指定遺跡の「青の洞門」です。

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「青の洞門」の「青」は?
以前、洞門は青くないのになぜ「青の洞門」って呼ぶんだろうと思っていましたが、実はこの洞門がある地域が江戸時代「青」という地名だったからその地名から「青の洞門」と呼ばれるようになったと知ったのは成人になってからです。

その洞門、これまた以前、洞門は禅海和尚がノミを片手に手掘りであったと聞いていたので、こんな車が通れるようなトンネルを掘ったんだ、すごいなぁ、と思っていました(^^ゞ

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今ある車が通れる大きさの洞門は明治時代に掘られたものと知ったのも成人になってからです(^^ゞ

洞門の駐車場近くには禅海和尚の手掘りをしている姿の像があり、そして実際に手掘りをした洞門にも入ることが出来ます。

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入ろうとしたのですが、照明もなさそうなので怖くて入り口で断念しました(^^ゞ

明り取りの窓は怖がらずに見学できます(^^)

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手掘りの洞門が全部開通するのに30年かかったそうです。

さて、どうして禅海和尚は洞門を掘り始めたのか?
この洞門のある地域の住人や旅人が隣村に移動するのに競秀峰を越えなければなりませんでした。
そしてそれは、岩かべにつくられた鎖渡しの道を渡たらなければならない難所で、禅海和尚が諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った時に鎖渡りで足を滑らせた人や馬が山国川に落ち命を落とすのを見て、洞門を掘ることを決意したと伝えられています。

禅海和尚が一人で掘ったと思っていたのですが、実際は托鉢勧進によって資金を集め、そのお金で石工を雇って掘ったそうです。
それでも、当時はノミと槌だけですが。
また、開通後は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路だったともいわれています。

有料になったとはいえ、これで命を落とす危険がなくなったのだから安いもんですね。
禅海和尚の偉業に「あっぱれ」をあげたいです。

禅海和尚のエピソードがあります。

禅海和尚は、もとは越後の国、高田藩の武士の子で、小さいころの名まえを福原市九郎といってました。
市九郎が10歳のときに父が死亡したため、母と二人で江戸に出て暮らし始めました。

江戸での暮らしは貧しく、そのこともあってか市九郎は悪行を繰り返しとうとうもののはずみで中川四郎兵衛という人を殺してしまいました。
そしてそんな中、病気がちの母は市九郎の悪行を心配のあまり死んでしまうのです。

母の死で目がさめた市九郎は悪い仲間からぬけだし罪をつぐなうため、僧となり名を禅海と名乗り、国中を巡り始めたのです。
そして、耶馬渓まできた時、多くの人たちが鎖渡しで転落死をするのを見て、洞門を掘りはじめるのです。

「カッツン、カッツン」。
禅海のふるうノミの音が、耶馬渓の谷間に毎日響くようになりました。
ある時、村人が、「お坊さん、どうなさるんで」と、禅海に聞きました。
「この岩をけずって、青にぬける道をつくるのです。」と禅海はこたえます。
この言葉を聞いて、村人たちは、「そんなこと出来るわけがない」と禅海を疑いバカにしていました。

禅海はそうした村人たちにかまわず、雨の日も風の日も雪の日も休まず毎日ノミで掘っていったのです

念仏をとなえながら、殺してしまった中川四郎兵衛への罪のつぐないをしょうと、一心に掘り続けたのです。

彫り始めてから1年、2年、3年と月日が経つにつれて、最初は馬鹿にしていた村人達も。
「あの坊さまは、えらい坊さまじゃ。」
といって、手伝う者がでてきたそうです。

やがて、26年の年月が経過したある日のこと、ひとりの武士が耶馬溪にやってきました。
村人に、「岩を掘っている僧は、福原禅海というものではないか。」と、尋ねました。

村人から武士のことを聞いた禅海が武士の前に現れると、その武士は、禅海にむかって、「禅海、忘れたか。わしは、お前に殺された中川四郎兵衛の子、実之助だ。父のかたき討ちにきた。覚悟しろ。」と、叫んだのです。

この言葉を聞いた禅海は、
「なんで忘れましょう。この四十年間、あなたの父上を殺した罪に、いつも苦しんできました。その罪ほろばしのために、穴を彫り続けているのです。もう少しで掘り終えます。今、あなたの手にかかって死ぬのが本当ですが、あと三年、待ってください。この洞道が完成したら、いつでもあなたに討たれます。どうかお願いします。」と、頼んだのです。
しかし武士は、「いや、ならぬ。覚悟しろ」と、刀に手をかけたのですが、村の庄家がとりなし、実之助に、禅海の三年の命ごいをして、工事を続けることにしまた。

実之助は、庄屋の家に滞在して禅海を見張っていたのですが、早くかたきを討ちたいため、実之助も工事を手伝うようになりました。
そして、実之助は工事を手伝ってみて、この洞門を造ることが、どんなに大変な仕事かということを、ひしひしと感じたのです。

 「カツーン、カッ、カッ、カツーン」。
禅海と一緒にノミをふるううち、禅海の真心が実之助の胸に響き、身にこたえ、心の奥深くまでしみ込んでいきました。

こうして、ついに実之助が禅海の前に現れてから3年目、禅海がノミをふるいだしてからおよそ30年の月日が過ぎたある日、ぽっかりと小さな穴が開き、その穴のむこうに、月あかりが見えたのです。
「うううう………。」
30年間の苦しみと喜びが、心の底からわきでるような声となって、禅海の口からしぼりだされ、禅海は、30年間という月日をじっとかみしめるかのように、しずかに目をとじたのです。

やがて、目をひらいた禅海は、
「中川さま、見てください。やっと掘りぬくことができました。」と、いい終わると、実之助の手をしっかりと握りしめ、実之助もまた禅海の手を握りしめました。

握りあった手に、ふたりの涙が流れ落ち、握りしめた二人の手から、憎しみも、苦しみも、悲しみも、全てが山国川の流れの中に、消えていったのです。

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[ 2015/08/30 07:11 ] 大分 | TB(0) | CM(8)
おはようございます。
禅海和尚のエピソードを拝読しまして、胸にこみ上げるものがありました。人は愚かなことをする生き物です。その後、どう生きるかが大切なのでしょう。良い話ですね。
[ 2015/08/30 08:12 ] [ 編集 ]
越後の国、高田藩・・・まさしく、この地です。

ここで生まれた方のお話なんですね。
知らなかった事です、ありがとうございました。
貧しい土地なので、さぞ生きにくかった事でしょう。

(郵便制度)の前島密翁もこの地の誕生で、やっぱり片親なのに母は、12歳の子を一人で江戸へ勉学の為に出しています。
今の母親たちにも、この強さをと。
[ 2015/08/30 11:59 ] [ 編集 ]
Re: おはようございます。
こんにちは。
過ちを犯しても、その犯した罪を悔い改めで生きていけば、許される日がくるのでしょうね。

[ 2015/08/30 13:15 ] [ 編集 ]
Re: タイトルなし
コメント、ありがとうございます。
越後製菓の町にお住まいですか?
昔の母は強く、そして優しかったのですね。
今の母親はワガママが強いように思います・・・(^^ゞ
[ 2015/08/30 13:57 ] [ 編集 ]
大分で こんな場所があるなんて・・・
[ 2015/08/30 19:17 ] [ 編集 ]
Re: タイトルなし
こんばんは。
御存じなかったですか?
紅葉が綺麗な場所ですよ(^^)
[ 2015/08/30 20:10 ] [ 編集 ]
このエピソード、幼少の折に大好きだったマンガで知りました。「青のどうもん」としか憶えていなかったので、禅海和尚と中川実之助さんのお名前がわかり、嬉しいです。大分なんですね。旅行にいくと、いつも、観光情報を探してました。いつか行ってみたいです。ありがとうございました。
[ 2015/08/31 00:07 ] [ 編集 ]
Re: タイトルなし
海月さん、はじめまして、そしてコメントありがとうございます。
「青の洞門」がある耶馬溪は秋の紅葉が綺麗な所です。
ぜひ紅葉シーズンに出かけてみてください。
[ 2015/08/31 06:55 ] [ 編集 ]
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