今日、8月31日は・・・・

「野菜の日」、語呂合わせですね。

ところで、今日は「I Love You」の日でもあるそうです。

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「I Love You」が「8 letters, 3 words, 1 meaning」(8文字、3単語、1つの意味)となるのがその理由です。
英語圏では、数字の「831」が「I Love You」の隠語です(^^)

日本は日付を語呂合わせで記念日に制定したりするけど、海外では語呂合わせってなかなかないですよね。
「831」が「I Love You」なんて誰が考え出したんでしょう?
他に記念日ではないですが、数字で表す意味で「24/7」があります。
これ四六時中とか仕事しすぎ、みたいな意味です。
「24 hours/ 7 days a week」
24時間働けますか? ですね(^^ゞ

そして今日は月末なので「蕎麦の日」でもあります。

これは、日本麺業団体連合会が制定しました。
いわれは、江戸時代、江戸の商人が毎月月末に縁起物として蕎麦を食べていたことに由来しているそうです。
細くて長い蕎麦が、身代(しんだい)が長続きするようにという願いを込めていたようです。

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蕎麦は大好きなので、月末とは言わず、毎日でも食べたい。
でも毎日食べたら身代が持たなくなりますね(^^ゞ
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[ 2015/08/31 06:52 ] 未分類 | TB(0) | CM(8)

青の洞門

大分県指定遺跡の「青の洞門」です。

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「青の洞門」の「青」は?
以前、洞門は青くないのになぜ「青の洞門」って呼ぶんだろうと思っていましたが、実はこの洞門がある地域が江戸時代「青」という地名だったからその地名から「青の洞門」と呼ばれるようになったと知ったのは成人になってからです。

その洞門、これまた以前、洞門は禅海和尚がノミを片手に手掘りであったと聞いていたので、こんな車が通れるようなトンネルを掘ったんだ、すごいなぁ、と思っていました(^^ゞ

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今ある車が通れる大きさの洞門は明治時代に掘られたものと知ったのも成人になってからです(^^ゞ

洞門の駐車場近くには禅海和尚の手掘りをしている姿の像があり、そして実際に手掘りをした洞門にも入ることが出来ます。

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入ろうとしたのですが、照明もなさそうなので怖くて入り口で断念しました(^^ゞ

明り取りの窓は怖がらずに見学できます(^^)

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手掘りの洞門が全部開通するのに30年かかったそうです。

さて、どうして禅海和尚は洞門を掘り始めたのか?
この洞門のある地域の住人や旅人が隣村に移動するのに競秀峰を越えなければなりませんでした。
そしてそれは、岩かべにつくられた鎖渡しの道を渡たらなければならない難所で、禅海和尚が諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った時に鎖渡りで足を滑らせた人や馬が山国川に落ち命を落とすのを見て、洞門を掘ることを決意したと伝えられています。

禅海和尚が一人で掘ったと思っていたのですが、実際は托鉢勧進によって資金を集め、そのお金で石工を雇って掘ったそうです。
それでも、当時はノミと槌だけですが。
また、開通後は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路だったともいわれています。

有料になったとはいえ、これで命を落とす危険がなくなったのだから安いもんですね。
禅海和尚の偉業に「あっぱれ」をあげたいです。

禅海和尚のエピソードがあります。

禅海和尚は、もとは越後の国、高田藩の武士の子で、小さいころの名まえを福原市九郎といってました。
市九郎が10歳のときに父が死亡したため、母と二人で江戸に出て暮らし始めました。

江戸での暮らしは貧しく、そのこともあってか市九郎は悪行を繰り返しとうとうもののはずみで中川四郎兵衛という人を殺してしまいました。
そしてそんな中、病気がちの母は市九郎の悪行を心配のあまり死んでしまうのです。

母の死で目がさめた市九郎は悪い仲間からぬけだし罪をつぐなうため、僧となり名を禅海と名乗り、国中を巡り始めたのです。
そして、耶馬渓まできた時、多くの人たちが鎖渡しで転落死をするのを見て、洞門を掘りはじめるのです。

「カッツン、カッツン」。
禅海のふるうノミの音が、耶馬渓の谷間に毎日響くようになりました。
ある時、村人が、「お坊さん、どうなさるんで」と、禅海に聞きました。
「この岩をけずって、青にぬける道をつくるのです。」と禅海はこたえます。
この言葉を聞いて、村人たちは、「そんなこと出来るわけがない」と禅海を疑いバカにしていました。

禅海はそうした村人たちにかまわず、雨の日も風の日も雪の日も休まず毎日ノミで掘っていったのです

念仏をとなえながら、殺してしまった中川四郎兵衛への罪のつぐないをしょうと、一心に掘り続けたのです。

彫り始めてから1年、2年、3年と月日が経つにつれて、最初は馬鹿にしていた村人達も。
「あの坊さまは、えらい坊さまじゃ。」
といって、手伝う者がでてきたそうです。

やがて、26年の年月が経過したある日のこと、ひとりの武士が耶馬溪にやってきました。
村人に、「岩を掘っている僧は、福原禅海というものではないか。」と、尋ねました。

村人から武士のことを聞いた禅海が武士の前に現れると、その武士は、禅海にむかって、「禅海、忘れたか。わしは、お前に殺された中川四郎兵衛の子、実之助だ。父のかたき討ちにきた。覚悟しろ。」と、叫んだのです。

この言葉を聞いた禅海は、
「なんで忘れましょう。この四十年間、あなたの父上を殺した罪に、いつも苦しんできました。その罪ほろばしのために、穴を彫り続けているのです。もう少しで掘り終えます。今、あなたの手にかかって死ぬのが本当ですが、あと三年、待ってください。この洞道が完成したら、いつでもあなたに討たれます。どうかお願いします。」と、頼んだのです。
しかし武士は、「いや、ならぬ。覚悟しろ」と、刀に手をかけたのですが、村の庄家がとりなし、実之助に、禅海の三年の命ごいをして、工事を続けることにしまた。

実之助は、庄屋の家に滞在して禅海を見張っていたのですが、早くかたきを討ちたいため、実之助も工事を手伝うようになりました。
そして、実之助は工事を手伝ってみて、この洞門を造ることが、どんなに大変な仕事かということを、ひしひしと感じたのです。

 「カツーン、カッ、カッ、カツーン」。
禅海と一緒にノミをふるううち、禅海の真心が実之助の胸に響き、身にこたえ、心の奥深くまでしみ込んでいきました。

こうして、ついに実之助が禅海の前に現れてから3年目、禅海がノミをふるいだしてからおよそ30年の月日が過ぎたある日、ぽっかりと小さな穴が開き、その穴のむこうに、月あかりが見えたのです。
「うううう………。」
30年間の苦しみと喜びが、心の底からわきでるような声となって、禅海の口からしぼりだされ、禅海は、30年間という月日をじっとかみしめるかのように、しずかに目をとじたのです。

やがて、目をひらいた禅海は、
「中川さま、見てください。やっと掘りぬくことができました。」と、いい終わると、実之助の手をしっかりと握りしめ、実之助もまた禅海の手を握りしめました。

握りあった手に、ふたりの涙が流れ落ち、握りしめた二人の手から、憎しみも、苦しみも、悲しみも、全てが山国川の流れの中に、消えていったのです。

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[ 2015/08/30 07:11 ] 大分 | TB(0) | CM(8)

耶馬溪と福澤諭吉

大分県中津市の本耶馬溪にある「競秀峰(きょうしゅうほう)」です。

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耶馬溪はこれから季節が秋になり、秋が深まってくると紅葉がとても美しい観光名所のひとつです。

「競秀峰」は、山国川に面して約1.5㎞にわたって屏風を開いたようにそびえる岩峰群で、峰々が競い合っているように見えることから「競秀峰」名づけられたといわれています。

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1894年(明治27年)、福澤諭吉が59歳のときに20年ぶりに墓参りのため中津に帰郷します。
その時にこの耶馬溪を散策しました。
そして、この景観の素晴らしさに感動したのですが、この競秀峰付近の山地が売りに出されているという話を耳にするのです。

そして諭吉は、この付近が心ない者の手に落ち、樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを恐れ、一帯の土地を購入することを決意しました。
自分の名を表に出さず、少しずつ目立たないように三年がかりで購入していったといいうことです。

この競秀峰の下には観光名所「青の洞門」もありますが、もし福澤諭吉が購入していなかったら壊されていたかもしれません。

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心ない開発から自然環境や景観を守るために、私財をもってその土地を購入するという福澤諭吉の行動は、自然保護および環境保全のためのナショナルトラスト運動の先駆けであると評価されています。

福澤諭吉のような人が政治家なら、日本の自然環境はもっと大切にされたんだろうなぁ。
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[ 2015/08/29 06:56 ] 未分類 | TB(0) | CM(2)

福澤諭吉旧居

天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ 
福澤諭吉の学問のすゝめの一説ですね。

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その福澤諭吉が住んでいた家が中津市に保存され公開されています。

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福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で下級武士福澤百助の次男として生まれました。
諭吉が2歳になる前に父と死別したため、諭吉の母は子供達をつれて郷里の中津に帰郷しました。
そして、諭吉はこの中津で幼少期を過ごします。

旧宅内には福澤家のエピソードが何箇所か掲げられていて、「しらみ取りの話」もその一つです。

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諭吉の母のお順は、いつも面倒を見ている物乞いのチエが家に来たときにシラミを取ってあげていました。
なぜかというと、チエをあわれんで握り飯を与えるよりも、シラミをとるという行為をさせてもらったお礼に握り飯を与えるとしたほうがチエが傷つかないであろうという考え方からです。

こういう、細やかな思いやりのある母の教育が、福澤諭吉の人格を育んだのだと思います。

そんな環境で育った諭吉は、19歳で長崎へ蘭学を学びに行き、その後「咸臨丸」で渡米、さらにヨーロッパ諸国も歴訪して西洋文明を学んだのです。

そんな諭吉を西洋かぶれとと嫌う中津藩の若い藩士がいて、諭吉を暗殺しようと企てます。
それを察知した(たまたま訪問という説も)諭吉の親戚の服部五郎兵衛が諭吉宅を訪れ、二人は夜中になっても酒を酌み交わし話し込みました。

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ここで酒を飲んでいたのかなぁ?

刺客は、諭吉が寝入るのを狙って襲おうと外で待っていたのですが二人がなかなか寝ないため暗殺の機会を逃し、諭吉は命拾いをしたという話も掲げられていました。

いろんなエピソードがある福澤旧宅です。

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旧宅に隣接して資料館もあります。
旧宅の入館料(資料館も込み)は400円、中津城との共通入館料は600円です。
支払いは諭吉さんで支払うとおつりが大変なので、野口英雄さんにしてください(^^;
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[ 2015/08/28 06:54 ] 大分 | TB(0) | CM(4)

如水庵の黒田五十二萬石

昨年の大河ドラマ「黒田官兵衛」の影響で官兵衛にゆかりのある各地で色々なお菓子が登場しました。

しかし、この如水庵の「もなか 黒田五十二萬石」は60年以上の歴史がある福岡の銘菓です。

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そして、社名も 「五十二萬石 如水庵」、最近にわかに官兵衛人気にあやかってできたお菓子とは全く違うのです。

「如水」とは官兵衛が隠居し剃髪後につけた号で、現社長の父が、「黒田如水公のように生きよ」と言ったことと、黒田如水の平和と文化と人間主義に対する深い尊敬の念から屋号を「如水庵」としたそうです。

もなかには、黒田家から許可を受け、黒田の家紋「藤巴」が描かれています。

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餡と一緒に求肥の餅入り


美味しいんですよ!
福岡県生まれのBBにとって、昔から最中といえば黒田五十二萬石なんです。
(福岡には「すくのかめ」もありますが・・・)

僕が初めて食べたときは、この丸い最中だけだったように思いますが、いつからか白あんと黒あんが入った小ぶりの最中も売られるようになったみたいです。

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ピンボケ(^^;


最近になって、丸い大きな最中を「如水公(じょすいこう)」、小さい最中を「光姫様(てるひめさま)」と名前を変えて販売しています。
どちらもとても美味しい最中です(^^)

でも、残念なのは熊本に如水庵がないために手に入りません。

先日、大分の日田から帰る時に、わざわざ如水庵が出店している久留米のショッピングセンターに立ち寄って購入しました。
できれば熊本のデパートに支店を出して欲しいなぁと思います。

熊本には「肥後五十四万石」というお菓子があり、石高は二万石負けていますが、味は十万石は勝っていると思う、「もなか 黒田五十二萬石」、また食べたいです。
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[ 2015/08/27 06:54 ] 食べ物 | TB(0) | CM(6)

閻魔さんのお寺

台風一過とはいえない天気の今日(26日)の熊本です。
沢山の方に心配していただき、ありがとうございます、おかげさまで大きな被害はありませんでした。
16年ぶりに熊本に上陸した台風、日頃の熊本県人の行いが良くないから閻魔さまが怒って呼び寄せたのでしょうか?(^^;

その閻魔大王がいる大分県中津市にある岡谷山 円龍寺です。

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ちょっと読みにくいですが、いわれが書かれていました。

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円龍寺閻魔大王縁起
閻魔大王は印度の神話に登場する世界の統治者夜魔で、佛教にとり入られて地獄菩薩の化身として末世衆生を救うために出現され給うたのである。悪行は日日に募り善行は劣るを哀愍し衆生に善悪の宿業を浄頗梨の鏡に顕し知らしめて、「地獄の業火は自らが造る業(カルマ)によって燃える。恐るべし慎べしと」大王は内に慈悲を蔵し、外に勧善懲悪の相を現し、「汝仏法流布の世に生れ何ぞ修行せず従らに三途の帰り来るや」と戒め給うておられる
当山円龍寺の閻魔大王は、往昔下毛郡金谷の産中津藩士某氏が江府において旗本衆へ相勤め居るとき、家の娘を奪い帰る途中箱根山中でその娘を鬼女に喰れ途方に暮れ一夜をさゆの河原の一宇に求めた。そのお堂に安置する閻王を祈念するうちに懺悔の念頗りに起り終にその場を離れ難き故に大王の御頭を写し彫刻奉り背負い参りて大阪の大仏師に御胴躰を彫刻し給い、海路帰国し高瀬村に草庵を繕い安置奉るが儘我が宿業果報べき様なく、此時中津円龍寺第二代月単上人名僧なりし故帰依し、法名を改め光誉浄薫善士と下され念佛三昧の善門となり、其巳来、円龍寺に於て閻魔堂を願主となりて建立し大王を此地に移し奉る。昼夜を分たす執行の道心是也。増々念佛共に寄依の人々繁昌に及び候也


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怖い顔の閻魔さまです。
閻魔さまの左にある人頭杖。
これは善悪をはかる杖で、なんでも赤い顔の方はすべての悪を見通し、白い顔の方は善を見通すと言われてるそうです。

そして閻魔さまの左側にいるのが三途の川の番人といわれる奪衣婆(だつえば)です。

奪衣婆は、三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼だそうです。
怖いですね~。

怖い思いをしたくないから、葬式費用がなくても、六文銭だけは絶対に持ってあの世に行きたいと思います(^^ゞ

怖い思いといえば、今回の台風は家がゆれ、風の音は落雷の音のようで久しぶりに怖かったです。
台風15号の被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。
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[ 2015/08/26 06:57 ] 未分類 | TB(0) | CM(4)

台風15号

おはようございます。

台風15号通過中の熊本です。

午前6時30分頃、熊本県荒尾市付近に上陸したそうですが、その時間帯の前に猛烈な風が吹き、家は揺れ、風の音は落雷の音のように響き渡っていました。
そして我が家の物置は倒れてしまいました。

先ほどより風は弱まっているものの、それでも木は大きく揺れています。

台風通過後の吹き返しの風に注意しなければなりません。

風はまだ強く(午前9時30分現在)吹いていますが、雨がやんだので出勤することに。
そしたら家の近くの街路樹が倒れていました。

台風


早く台風が遠ざかり、また今後台風の進路上にある地域の方が被害に合わないように祈ります。
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[ 2015/08/25 06:59 ] 未分類 | TB(0) | CM(20)

赤壁と呼ばれる合元寺

通称「赤壁」といわれる合元寺は、天正15年(1587年)黒田官兵衛が姫路から中津に国替えをしたとき、姫路から同行してきた浄土宗西山派の 開山空誉上人によって開基されました。

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昨日記事にした、「城井神社」の祭神である宇都宮鎮房が中津城に向った時に彼の従者が留め置かれたのがこの合元寺です。

なぜ赤壁か?

それは、宇都宮鎮房が中津城で謀殺されその後この合元寺に待機していた鎮房の家臣も黒田の武士によって、惨殺されるのです。
それは壮絶な殺戮で、寺の白壁が血で赤く染まったそうです。

その後、血の痕を消すために幾度となく白壁は塗り替えられますが、血痕が浮き上がってきたそうです。

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惨殺された宇都宮家の呪いなのか、何度も何度も白壁に塗り替えても血痕が浮き上がるために、とうとう白壁を赤色に塗り替えたのです。
それ以来この寺は壁は赤くなりました。

外側の壁だけではなく寺内のお堂や、住職の住まいの壁も全て赤く塗られていました。

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今は静かな寺町ですが、当時の死闘は凄まじかったんだろうなぁ。

中津でこんな事件を起こした、黒田官兵衛(孝高)と長政の親子ですが、その後色々な難事が黒田家に起こるのです。

まず、黒田家には後継ぎが出来ず黒田官兵衛の男系血筋は途絶え、養子縁組で黒田家福岡52萬国を維持します。
そして、幕末頃、これまた伊勢の津藩から黒田家に養子となり藩主となった、黒田長知は明治になってそのまま福岡県知事になるのですが、この時、福岡藩の財政は破たんしていました。
そして、何をしたか?
偽金を作っちゃったんです、それが政府にばれて事実上、黒田家はお取り潰しになってしまいました。
(補足説明)
12代福岡藩主黒田長知は偽金事件で知藩事を解任、後任には有栖川宮熾仁親王が就任しました。
知藩事は江戸時代の藩主と同様に世襲が認められていたことから、実子が知藩事を継げない事態は江戸時代のお取り潰しに匹敵する厳罰であったということです。


このことを、福岡県人は当時、
「黒田長政が宇都宮鎮房を騙し討ちにしたために鎮房に呪われ、黒田家は滅んだ」
と噂し、鎮房の呪いや祟りを恐れたということです。

宇都宮鎮房とその家臣の呪いは強烈だったんでしょうね。怖い話です。
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[ 2015/08/24 06:56 ] 未分類 | TB(0) | CM(6)

城井神社

戦国時代に興味がないとわからないのですが、黒田官兵衛に関係する「城井(きい)神社」です。

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祭神は「宇都宮(城井)鎮房」です。

昨年NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」でも、この宇都宮鎮房との関わりがとりあげられていましたね。

宇都宮家は鎌倉時代より中津のとなりの豊前の土地を400年もの間、治めていた領主でした。
そして領民からも慕われていた領主だったのです。

中津に城を構えることになった黒田家にとって、古来より中津近辺を納めていた宇都宮鎮房が目障りでした。

そこで、天正16年(1588年)、官兵衛の息子、黒田長政は宇都宮鎮房を殺害するために中津城に招待するのです。
宇都宮鎮房に随行していた家臣団は中津城の近所の合元寺に留め置かれ、長政を信用して鎮房はわずかな共の者と城に入ります。
そしてその時歴史は動いた!(^^ゞ

中津城内で長政と酒席を囲んでいた鎮房は謀殺されてしまうのです。
さらに、鎮房に同行し合元寺に留め置かれた家臣達も黒田勢との斬り合いの末、全員が討ち取られてしまうのです。

そのためか、その後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に悩まされる毎日が続き、霊をおさめるために中津城内に神社を創建したのです。
それが「城井神社」です。

その城井神社の末社として扇城神社が同じ敷地内にあります。

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この神社は合元寺に控えていた城井家臣達を弔うための神社です。

戦国の世とはいえ、天下平定のためにむごい殺戮が繰り返されたのですね。

大河ドラマでは岡田准一と松坂桃李が官兵衛と長政をやっていましたが、彼らにもそんな冷淡な部分はあるのかなぁ、なんんて考えながら神社にお参りをしました。
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[ 2015/08/23 06:42 ] 神社 | TB(0) | CM(2)

中津城

大分県中津市にある中津城です。

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全国的にそんなに有名な城ではないですよね(^^ゞ

でも昨年の大河ドラマで「黒田官兵衛」が放映されて知名度も上がったのでは?
でももう忘れ去られてしまったかなぁ?

たぶん、大河ドラマの影響でこのお城を訪れる観光客もいると思いますが、城内の展示は幕末時に城主であった奥平家のものが中心なんです。
だから、あれ?って思ってしまうんですが、そんな観光客のために以前はなかった資料館が出来ていました。
昨年の1月、大河ドラマが放映開始された時期に合わせて開館された資料館です。

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この資料館、今年の3月に閉館予定だったそうですが、人気があるため1年間閉館を延ばしたそうです。

かたや、姫路の「黒田官兵衛 大河ドラマ館」は閉館してしまったそうですが。

この中津城は黒田官兵衛が豊臣秀吉の命令で九州を平定し、その功績によって中津16万石を拝領したことで、天正16年(1588)に築城したのが始まりです。
中津城主はその後、黒田家が関ヶ原の戦いの功績で福岡52万石に移った後、細川家(のちの熊本藩主)から小笠原家、そして奥平家へと移りました。

天守からの眺めをとてもいいです。

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官兵衛はこの天守から自分が天下を獲ると考えていたのでしょうか?
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[ 2015/08/22 06:43 ] 大分 | TB(0) | CM(0)
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